ゆるぐた記録日記

読んだ本、思った事、取り留めもなく書き綴るつもり。

一月のメモ

 

本当は本を一冊読むごとに、映画を一つ観るごとに、新しいCDを一枚聴くごとに、感想書けたら良いんだけど、なかなかそうもいかず。

それは、ゆっくり感想を綴る時間がないとか、感想自体がまだあやふやで言語化できないとか、または感想を書きたくない(書けない)とか、いろいろなんだけど。

 

でもとりあえず、観たもの聞いたもの読んだもの、とかを、走り書きしとこうかなという感じ。

忘れてる分あるかと思うから、思い出し次第追記予定。

 

 

以下、一月中のメモ。

 

[映画]

君の名は。(2回目)

この世界の片隅に

 

[展示]

◯オランダのモダン・デザイン

リートフェリト/ブルーナ/ADO  (OPAM)

 

[CD]

◯朝へ For morning (utaco)

◯OLIVE (SKY-HI)

 

[本]

手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)  (穂村弘)

 

[その他]

哲学カフェ第31回参加

(テーマ、自分らしさって何だろう。)

 

 

以下、貼れるもののリンク。

気になる方は是非に〜。

 

 

朝へ For morning

 

 

OLIVE(CD Only盤)

 

 

手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ) (小学館文庫)

 

 

 

(あれー、本もう少し読まなかったけ?感があるから、何か抜けてるかも。)

 

 

 

(感想) 朝へ For morning

 

彼女の歌を初めて聞いたのは、成人してたかな?してないかな?ぐらいの頃かな。
手元に届いたCDから聴こえた音楽の重さに、ズシンと来たのは今でも覚えてる。
その頃の私には音楽は、なんというか現実味の無い表現という感覚が強かった。(音楽表現者じゃないやつが何を言うって感じだけど!)
娯楽というか、楽しい音だった。
でも彼女の音楽は、音というより声だった。
それぐらい生々しくて、惹きつけられるパワーがあった。
彼女、utacoちゃんのイメージは不思議なパワーを孕む歌を唄う人になって、それは今も変わらないです。

 

去年の11月にutacoちゃん主催のイベントが東京でありました。

3回目だったutacoちゃんのバースディイベント、私は現地には行けませんでしたが、lamppnytとして少しイベントに参加させてもらいました。

(ここで様子が見れます。素敵なので是非!)

うたのこどもが生まれた日vol3

 

このイベントでutacoちゃんの新しいCD「朝へ For morning」が販売されたので、1ファンとしては買わずにはいられず!

早く聴きたかったんだけど、ちょうどイベント後から年明けまでなんやかんやあって、やっと最近ゆっくり聴けたので感想でも、と久しぶりにブログの更新。
(長すぎる前置き)

 

上記に書いた通り、私のイメージはめちゃくちゃパワーのある歌なので、1度目はちゃんと落ち着けるとこで聴きたい!と思ってなかなか再生できなかったCD。
でも再生して1番驚いたのは、すごく印象が変わってたこと!
これは前のCD「10Hz」との比較なので、ピンとくるかは人それぞれだろうけど、「朝へ」の伸びやかさにとても驚いた。
パワーが無くなったわけではなく、昇華したイメージ。
持て余してた強すぎる感情やら生命力とかの使い方、持って行き場所が分かったから、もう大丈夫。そんなイメージ。


「10Hz」は原色だった。激しく動く感情も、静かで丸まってる感情も、痛いけど愛しい。
「朝へ」は原色に比べて、随分淡くなったと思う。霞みがかった色。それでいて新鮮で透明感の高い。確かに痛くて辛かったけど、それは悪いことじゃなかった。
水を加える前のどっしりとした発色の絵の具の色と、水を加えて色を作って白い紙にすうっとひいた色、そんな違い。


このCDを聴いた時、彼女はこの数年間でいろんなことを経て、そして乗り越えてたんだなと感じた。
そして彼女は今幸せなんだな、とも感じた。
(物理的な距離もあるし何が起こったのか全ては知り得ないので、全然予想なのだけど)
彼女の友人として、彼女の歌が幸せそうな事がとても嬉しかったです。
他人の不幸が売り物になってしまう時代で、幸せになると魅力がなくなったなんて言われてしまったりもするけれど、私は決してそうではないと思います。
「10Hz」には「10Hz」の良さがあって、「朝へ」には「朝へ」の良さがはっきりあって。
受け取る人に響く、響かないはもちろんあるけれど、でも確実に魅力は増したと感じました。


このCDの、どこまでも行けるような伸びやかさが好き。風に舞って優雅に表情を変える絹のような曲。
夜を越えて朝に向かうための曲。タイトルの「朝へ For morning」はぴったりだなと思いました。

 

4曲収録で、どれも個人的には甲乙つけがたく大好き。

 

CDタイトルと同じ「朝へ For morning」は、本当にタイトルを表すようなメロディーと歌詞で。
言葉の1つ1つに惚れ惚れしちゃうほど、綺麗な、でも儚さだけじゃない曲です。

 

「さ・よ・な・ら の ワルツ God is laughing」は、強いて、本当にどうしても1番を決めるなら、この曲が1番好き。
こんな歌い方も出来る人だったの、と思ったけれど、世界観はやっぱり彼女の世界で。
スカートをなびかせながら、時にはそのスカートを拳でぎゅっと握りながら、それでもその子の目にはいつだって愛がある、そんなイメージが浮かぶ曲。
utacoちゃんの話をしたいので、別の人の名前は出さないけれど、最近「別れを愛すること」について聞く事があって。ちょうど自分自身そんな事について考えてたので、時期も合ったのかも。

 

「アンタレス Cor-scorpii」この曲は、CDの中で1番utacoちゃんらしいって勝手に思ったり。
utacoちゃんのことを思う時、私はよく星を思い浮かべます。
小さいけれどとても明るく、自身で光を放ち続けて。生と死が少し痛いぐらい一緒にあって、太陽や月ほど強くはないけど、見つけるとほっとする、繋いでいくつもの星座の物語が広がる、あまり天体に詳しいわけではないけど、そんなイメージはどこか彼女に重なります。

 

最後に収録されている「舟 a boat」、この曲は実はこのCDを聴く前から知っていました。確かツイキャスとかで聴いた気が。
この曲もすごく惹きつけてくれる曲で。また、流れの最後だからすごく魅力が発揮されてて。
この曲を聴くと、早朝、まだ朝霧が立ち込める中、ゆっくり乗り込んだ舟を、そっと岸から押し出してもらえてるようなイメージが湧きます。
自分の夜明けに向かうために、舟を漕ぐ、その最初の初動の力を分けてもらえるような気になります。

 

また前のCDよりもクオリティもすごく上がっていて、それはutacoちゃん自身の成長ももちろんあるのだけど、「朝へ」を作っている全ての人のおかげでもあるんだろうなって思って。
CDジャケット、歌詞カードのデザインも歌の魅力を増幅させてるし、ピアノの音が入っているのも素敵で、音もすごく澄んでいて。そんなCDに関わっている人達の愛も、このCDができるまでにutacoちゃん自身に関わっていた人達のutacoちゃんに対する愛も、utacoちゃん自身の愛も、全部で出来た素敵なCD。

 

utacoちゃんのライブに、生歌を聴きに行きたくなるCDです。
(ファンとか言っときながら、実は距離的な問題で彼女のライブに行く夢はまだ叶ってないので、本当に機会を作らねば!)


amazonでお取り扱いを始めたみたいなので、是非聴いてみてほしい1枚です。

 

朝へ For morning

朝へ For morning

 

 

なんだかとてつもなく長く書いてしまった気がするけど笑、それぐらい好みの1枚でした。

 

何度越えても夜みたいな真っ暗な不安の中にいるときは、もう朝なんて来ない気がする。
時には朝が来る事が絶望だと感じる夜がある。
だけど、どんなに暗い夜が来ても朝が来るから私は大丈夫。

 

私が感想を書きながら、1番残ったイメージはこれでした。
気になった方は是非。

 

 

twitterで出会ってからもう5年近く経とうとしてる友人ですが、愛が深くて可愛らしい人。

最初のCDからの変化に驚かされたけど、彼女はこれからももっと変わっていくんだと思います。

自分に対しても他人に対しても、変化に対応するのがあまり得意ではないですが、変わることは悪いことではない、流れ続けたいと思い始めたのはごく最近です。

彼女がこれからどこに向かって、どんな表現を見せてくれるのか、友人としてファンとして、とても楽しみです。

 

 


((( 感想とは関係なさげなひとりごと )))

 

 

 

どうすれば自分の言葉を濾過できるんだろうと思う事がよくあります。
感想を書く時によく思う事、確かにその作品から何か受け取った感覚はあるのに、上手く言葉にできない。表現が稚拙で、語彙力が足りないと思う。その前に、感じた何かを自分で再認識して言葉に起こすこと、それが難しかったりする。誰かの言葉ではなく自分の声で。
読書感想文の書き方がわからず作中から引用しまくってた夏休みが思い出されます(うぅっ、、、)

楽曲でも本でも、新しいものを開こうとすると、私自身にすごくパワーがいります。身構えてしまうのかも。
でもだからこそ、受け取る準備ができた状態で作品を開くので、受け取ったものは少しでも消えないうちに残したいと思います。
今年もいくつ感想が書けるか分からないけど、できる限り書きたい。

苦手を少し克服した小言

 

美術館が、実は前は少し苦手だった。

 

今日、妹の課題の付き添いで近所の小さい美術館に行った。

初めて行く美術館で、こじんまりとしていて、展示スペースもあまり広くない二部屋しかなくて、来館者も少なくて、外観は素敵なのに、ひっそりとゆったりとした美術館だった。

妹の課題と言っても、妹は私よりも随分美術館に縁遠い子だと思う。

楽そうなので取った授業で、美術館についてあれこれ書いて提出しなきゃいけないというから、付き添ってその日やっていた美人画展を見た。

めんどくさいやら、よく分かんないやらいう妹の横で、解説を斜め読みして、さらにそれを噛み砕いてこんなことを表現した絵なのだと説明しながら周った。人がほぼ居なかったから、小声でしゃべっていたけど咎める人は居なかった。

 

私が美術館が苦手な理由が、よく分からないと言えないからだ。

同じ理由で、子供の頃の夏休みの定番、読書感想文も苦手だった。本はその頃からたくさん読んでたのに。

美術館やら、授業としての読書やら、そういう何かを感じとらねばならない、というものに弱い。何かを感じ取って、感想を述べなければならない。そこで、よく分かりませんでしたとは言いづらい。言えない。

 

知らないものを見るのは好き。知らない土地に行くのも、普段知り得ないものが知れるからいろんな土地に行きたい。読んだことないジャンルの本を、図書館でふらっと手に取るのもワクワクする。

だけど、それについての感想を求められた途端、息苦しくなる。

もちろん、何も感じてないわけじゃない。見て思ったこと、読んで感じたこと、聴いて浮かんだこと、いろいろある。あるはずなのに、口が、頭が重くなる。

そういうのも、人の求める応えを探す癖があるからだろう。長女気質なんだろうか、子供の頃から、親が先生が何を考えて何を求めてきているのか、どう答えれば満足されるのか、考えてた気がする。

だから、社会科見学で美術館に行っても、読書感想文で課題図書を読んでも、まずは、これを見て読んでどう感じて欲しいんだろう、となる。私が書いていて、私の感想ではないようなものが出来上がる。そしてそれが合ってるか分からないから、そもそも感想なんて言いたくなくなる。感想に正解なんてないんだけど。

それに、薄っぺらい感想しか出てこないと、まるで自分が薄っぺらい人間な気がしてくる。こんなに素晴らしい(であろう)作品を見てるのに、何も感じないなんて、感性が乏しいじゃない?みたいな。

そんなことはないと冷静には思う。

作品にも作者にも、相性はあるだろうし、誰かにとっての最高傑作が誰かにとっての落書きにしかならないこともある。要は価値観とどれだけ相性が良いかなんじゃないかと思う。

だけど、感想を言わなきゃいけないとなると、価値観が合わなくて、私には良さが分かりませんでした、では丸はもらえない。

でもよく分からないものに対して、言えることなんて薄っぺらい言葉だから、肩身が狭くなる。

 

美術館に対して、その苦手意識が無くなったのは割と最近な気がする。

長々と感想が書けるのが一番良い、わけでは無いと体感して、許せたからじゃないかな。

言葉に出来なくても、感じたものはきっと私の中にあるし、それは日々のいろいろで忘れちゃったりもするかもしれないけど、でも残り続けてどこかで私を形作る感性になると思えたから。

言葉にできるなら、それはそれで記録として残しやすいけれど、だからと言って言葉に出来ないから何も受け取れてない、感じられてないわけではない。

 

11月には友人に誘われて、市立美術館にミュシャ展を見に行った。その時は、一つ一つじっと近くで見て、ほぅっと息をついて、三歩下がって全体を見て、また近づいて、すごく魅せられた。展示数が多くて、最後は受け取りすぎて頭と心が飽和気味だった。

その時は、やっぱり言葉にはうまく出来なかったけど、すごくドキドキした。

そして早く帰って、何か作りたいと思った。

 

その感覚って大事だと思う。

なにも感想なんて、感想文だけじゃない。

受け取ったものを、言葉で綴る人でも、それは感想文だったり日記のようだったり、インスピレーションを受けて散文や詩、短歌なんて書いたりもするだろうし、音楽に長けた人なら音を作るのかもしれないし、私は刺繍をしたり、その為にラフとして絵を描いたりするから、とにかく手を動かしたかった。

 

美人画を見ながら、よく分からんと言いつつ中には「あっ、でもこれかわいい」なんて万能な言葉1つでサラサラと作品を通り過ぎてく妹を見て、別にそれだって良いんだと思った。

好きに楽しめればそれが一番。

 

美術館って結構企画展示の情報が入って来づらかったりするけど、興味をそそられるものは積極的に見に行きたい。

好きなもの作れるように、心を揺するものに触れることはとても大切。

インプットがないとアウトプットの質が下がるだろうし。

いろんなものに触れて、感想があるものはしっかりと感想を残したい。

 

何でもないように綴ること

 

なにを思ったか、唐突にブログを始めてみたり。

 

ブログなんて高校の頃以来。

あの頃は、何をそんなに書くことがあるんだと言いたくなるぐらい、長文のブログをほぼ毎日のように学校から帰る電車の中で書いてた気がする。

ブログを更新しなくなったのは、ツイッターを始めた頃かな?

個人HPからpixivに、ブログからツイッターに、いつの間にか周りも自分も移行してた気がする。

 

文字を綴るのは、別にツイッターで好き勝手呟いていれば良いのだけど、なんというか、質が違う気がする。

使い方の問題だろうけど、ツイッターに呟く言葉は、煮詰めてない。

別に時間をかけてブログを書いていたわけではないけど、けれど、これを書こう!と文を書き始めることは、ツイッターではない。

その時思ったことを、溜め息のように吐き出すにはツイッターが便利だけど、そればっかりを続けていると、少し考えながら書いてみたくなる。

ちょっと長い文を。

 

私の場合、今までは溜め息はツイッター、ちょっとした日記のような独り言はInstagramにあらわれてたけど、Instagramをほぼやめてしまったので、思い出したかのようにブログが書きたくなったってだけだろうけど。

 

別に大した事を書く予定でもなく、日記のように身の回りのこと、読んだ本、観た映画、行った場所、書きたい事を書きたい時に、ゆるぐだと続けていけたら良いな、と。