ゆるぐた記録日記

読んだ本、思った事、取り留めもなく書き綴るつもり。

腎臓病を患う話④

 

IgA腎症の治療として、説明されたのはまず扁桃腺の摘出、その後にステロイドパルス療法でした。

 

え?なんで扁桃腺取るの?

 

私はあまり扁桃腺が腫れる体質ではなかったので、扁桃腺のイメージは風邪ひいて病院行った時に、あーーーって見せて

「あー、ちょっと赤くなってますね〜」

って言われるとこ、ぐらいのイメージしかなかった。

それを取る?腎臓のために?ん?

 

実はIgAを作れ!という伝達を出すのは扁桃腺らしい。

空気中の雑菌がくっついた扁桃腺が炎症を起こすと、それに対して体が抗体を作る。この抗体がIgA。

だけど、扁桃腺がIgAを作れという伝達を出し続けると、腎臓にはくっつきやすい異常なIgAが作られて、それがメサンギウムにくっつくとIgA腎症になる。

 

だから大元の扁桃腺をとってしまおう!という治療方針らしい。

 

あ、だから口呼吸の人は、そうでない人と比べてIgA腎症になるリスクが高くなるんだとか。

それでなくても口呼吸の人は鼻呼吸の人よりも寿命が短かったりするんだと。

扁桃腺をとってから免疫が下がるので、口呼吸を治そうと今年からあいうべ体操を始めたので、口呼吸気になってる方は是非あいうべ体操で検索!

(なんの回し者でもないよ)

 

 

余談でした。

 

なのでまずは扁桃腺の摘出から。

全身麻酔の手術だとI先生に説明されながら、

「でも大丈夫だよー、扁桃腺取るのなんて、玉ねぎの皮むくようなもんだから。しかもうちは全身麻酔で麻酔でやるから起きたら終わってるよー。自分も昔取ったけど、自分の時は局部麻酔だったから自分で口開けとかなきゃいけなくて大変だったよー笑」

とか先生笑ってたけど、なんだそれ地獄かよ、全身麻酔でよかった!!!

 

でもまたもやA病院には耳鼻咽喉科がなく、手術するためには他の病院の先生にかからねばならず。

そこでI先生と一緒に同じ手術、治療をしてきたF病院の先生が、奇遇にも高校の時ストレス性の難聴にかかった時にお世話になった先生だったので、すんなりと執刀医も決まり、紹介状を持ってF病院に手術前の検査と説明を聞きに。

F病院は入院設備があるような大きな病院ではないので、A病院に入院し、F病院の先生が手術しに来てくれるという形に。

 

I先生とは、「F病院の先生の都合もあるけど、多分5月とかかなぁ」とか話してたのに、GWはさむと先生6月末ぐらいまで予定が開かないらしく、急遽今月しよう!となり、心の準備ができなくて白目をむく。

 

まぁでも嫌なことは早く済んだ方が気が楽…、だし、これもきっと何かの思し召しや!やろう!ってことで、手術すると決めて2週間後にすることに。

この時2016年4月。

 

腎生検からのスピード感。

あれよあれよと言う間に決まって、手術まで体調崩さないということで、手術の5日前から抗生物質の服用が開始。

 

熊本、大分の方ならまだ1年経ってないので記憶に新しいと思うけど、この頃熊本を中心に大きな地震が立て続けにありました。

私の住む大分も結構大きな震度の地震が来て、その時居た自宅の被害はないものの、実家が古くて不安だったのと、夜中に何度も来る大音量の緊急地震速報と、揺れと、手術の不安でこの時の精神状態は結構ガタガタでした。

 

手術中に大きな地震きたらどうなるんやろ、とか思ってた。

まぁ来なかったんだけど。

 

扁桃腺取ると、しばらく喉が痛いから(そりゃそうだ)、手術前に美味しいもの食べときよーというI先生の勧めにより家族で中華とかも行ったんだけど、それに勝る不安な記憶しかない、笑。

 

そんなこんなでメンタルガタガタのまま入院。

 

手術前日に麻酔担当の先生からとか、いろんな説明や当日の流れを聞いたりして、翌日14:00から手術。

それまでに、なんか栄養価の高そうなジュースを飲んだり(朝の軽食以降絶食だったので食事代わり)、座薬使わなくちゃいけなかったり、手術着に着替えたり(スースーする)。

呼びに来た看護師さんに連れられて、歩いて手術室のある階へ移動。

 

手術室の手前で付き添いきに来てくれてた母と妹と別れ、手術を行う先生やスタッフさん達と意思疎通(?)。

名前だったり、これから自分が何の手術を受けるのかを確認のため患者から言ったり。

 

驚いたのが、

「hiちゃん?」

とスタッフさんの一人から言われて、ん?と思ったらまさかの小中の同級生!

麻酔助手的なポジションみたいだった。

中学卒業以来会ってなかった子と、手術室でまさかの再開(手術する側とされる側という)。

 

そんなことがあったので、緊張しやすい私も一気に緊張が解けて、結構リラックスした状態で手術台に。

(自分で上がるとは思ってなかった)

 

すぐに腕に針が刺されて、

「じゃあ麻酔していきますね。ゆっくり一緒に数数えてください。いち、にぃ、、、」

 

どこまで数えたか覚えてないけど、ハッと目を開けたら、頭上で先生が

「無事終わりましたよ」

と立っていた。

何だか夢を見ていて、その夢の内容が思い出せそうで思い出せなくて、ぼーっとしたまま返事しようと思ったら声が出なかった。あと喉も痛かった。

(手術後、少しの間声が出なくなることは説明されてたし、筆談の用意も言われてた)

「無理に喋らなくていいよ〜」

と言われながら、病室に運ばれた。

麻酔がまだ切れきっていないのか、うつらうつらした状態で、半分寝てるみたいな感覚だった。

ただ、手術終わったら目が覚めるんだ、すごいなぁと思ってた。

 

病室に帰ると、母と妹に加えて、父と祖母が来てた。

でも父と祖母は、あまりに喋れなくて(麻酔で)ぐったりしてた私を見てられなかったのか、数分で帰った、笑。

 

病室で血圧測定器や、エコノミー症候群予防の機器をつけられて、翌朝までは安静になる。

時間は覚えてないけど、夕方から夜にかけ手だったと思う。

麻酔が体に合わなかったのか、急激に気持ち悪くなってリバースもしたけど、何も食べてなかったので胃液ぐらいしか出なかった。

その片付けをしてもらうとき、自分で呼吸が出来たので酸素マスクを外してもらった。

喉は痛かったけど、まだ麻酔が残ってたから、うつらうつらしてたらあっという間に朝が来た。

 

朝早く、F病院の先生が立ち寄ってくれて、摘出した扁桃腺を見せてくれた。

まぁなんとも思わなかったけれど笑。

検査材料にしたいのでこちらで引き取っても良いかと聞かれたので、別に持っていてもしょうがないので頷く。

そのあと管やら血圧測定器やらが外れたので、点滴だけになって随分身軽に。

 

この日からしばらく痛みとの戦い。

翌日から口から摂る食事が出る。

最初は全粥(米粒もないぐらいとろとろの液体)そこに栄養調整のための牛乳やらジュースやらの紙パックの飲み物が2つぐらい。

唾液を飲み込むだけでもめちゃくちゃ痛いけれど、口から食事が取れないと点滴が抜けないので、退院できない。

全粥1杯とジュース2本でも完食に1時間かかった。(まぁ他にすることもないから別にいいんだけど、何度も下げに来てもらうのが申し訳ない)

そこから、少しずつ米粒が残る形状になって、最後はおじやぐらい米粒がしっかりと残る粥も食べれるぐらいにまでなった。

 

その間何回かF病院の先生が診にきてくれるんだけど、

「今は自分のこと恨むぐらい痛いだろうけど、絶対時間が経てば治るから」

と何度も言われ、この先生は過去どんな恨み辛みを言われたんだろう…と逆に心配になった。

むしろ声出ないから言えない。

 

口の中を清潔に保つことだけは言われてたので、朝と夜、あとは毎食後に歯磨きをするぐらい。

あと喉がめちゃくちゃ痛いので、ずっと氷嚢を喉に置いてた。

 

少しずつ声が出るようになってきて、まだ痛みはあるけど食事も十分取れると判断されたので、9日間で退院。

 

その後は自宅療養だったけど、一ヶ月ぐらいで痛みも殆どなくなった。

傷口を縫った糸も、食事をする時に自然と取れて無くなるタイプのものだったので、抜糸もなく扁桃腺にまつわることはこのぐらい。

 

 

どんどん長くなっていってるけど、次でラスト。

 

 

 

腎臓病を患う話③

 

2016年3月、腎生検での入院の日。

母に付き添ってもらって病院へ。

(車を置きっぱにできないので)

 

ナースステーションの真隣の、要観察患者とかが入る個室通される。

(むしろガラス越しにナースステーションの中が見れる)

機材を置くためか、やけに広くてちょっとビビる。

看護師さんの説明は丁寧だったんだけど、点滴を刺すのが下手な方で、何回も刺し直されて、挙句に腕に入らずに手の甲に刺されて、まだ何も始まってないのにぐったり…笑。

ついでに尿用の管を通されるのも痛い。

腎生検は検査後に絶対安静になって一歩も動けなくなるので、尿道に管を通す。

(出血がすぐ分かるようになのも含めて)

 

そこから少し時間は空いてたけど、あっという間に検査の時間になり、部屋にエコーやら血圧測定器やらが運び込まれてきて、いよいよか感が。

背中側から針を刺すので、うつ伏せになり、左手には点滴、右手には血圧測定器と酸素濃度を測る機械をつけられ、体は管まみれ。

 

エコーで腎臓の場所を確認しながら、細胞を採取するんだけど、エコー見てるお姉さんが、

「え?これですか?」

(上司っぽいおじさん)「いや、その上のやつ」

って会話してて不安度がうなぎのぼり。

大丈夫か。大丈夫なのか。お姉さんは研修医なのか?

 

緊張しやすいので、すでにここでもう少し気持ち悪い、笑。

 

担当の先生も入室して、いよいよ局部麻酔。

皮膚麻酔の後に、筋肉麻酔をするのだけど、筋肉注射は痛いよーと脅されてた割に私は皮膚注射の方が痛かった。

筋肉注射は重くて気持ち悪い感じだけど、皮膚注射はいったーーーーーって感じなので、どちらが苦手かによるんだろうけど。

 

でもこれを我慢すれば、あとは痛みはなくて、不安感と戦うだけ。

 

みなさんは注射されるとき、刺されるとこ見る人ですか?

私は最近はもう慣れてきたので見ないんですが、こんなに病院通いする前は注射が嫌いで嫌いすぎて、いつ刺さるか見てないと不安だったのでガン見してました。

 

でも腎生検って背中から刺すから、見れないんです…。

次回は枕とベッドの柵と自分の腕ぐらい。

見るのも怖いけど、見れないってのが結構怖い。

 

針を刺すとき、先生の声かけに合わせて呼吸を止めます。

息を止めると腎臓の上下も止まるらしい。

なので針を刺すとき、息を止めて、先生が良いと言ったら緩める。

細胞を切り取る時、ガシャンッ!て音がします。

針の先から細胞を取る部分が出て、細胞を掴んだまままた引っ込んで、針を抜くらしい。

考えた人すごい。

 

まぁこんな感じで、ぶっちゃけ腎生検自体は麻酔の痛みさえ乗り越えたらあとは結構すぐ終わります。

 

個人的に辛いのはそのあと。

腎臓に傷を付けているので、そりゃ出血します。

多少の出血は大丈夫らしいんですが、その出血の量が多くなると腎臓の周りに血の塊が出来て、熱が出たり、合併症の危険が高くなるみたい。

なので止血のために、6時間ぐらい身動き取れない状態が続きます?

 

まず先生の圧迫止血を開けたあと、仰向けに転がされるんだけど、腰回りに力入れると腎臓が出血するので、絶対力入れないで!と言われる。

逆に難しい。

 

その後、傷付いた方の腎臓の下に砂嚢(すごく硬い枕みたいな)の敷いて、点滴からは止血が送られ、エコノミー症候群の帽子で足は着圧タイツと一定間隔で圧迫して血流を押し流す機械をつけられて、あとは動いちゃダメな6時間。

気が紛れれば良いんだけど、私の場合寝たくても寝れなかったのど、キツくてテレビ見ても音楽聴いても、携帯触っても何にも集中できなくて、ただひたすらに1分毎に時計見てた、笑。

砂嚢が当たる部分がだんだん痛くなったりして。

 

その後、やっと6時間越えたら、寝返りはオッケーになります。

(でも起きちゃダメ)

横向いて食事をとって、あとは就寝なんだけど、まだ尿用の管もついてるので寝返りも一苦労。

 

そこを乗り越えたら、ベッドから降りても良い許可をもらって管を抜くので、随分楽になります。

ただ、まだ完全に傷が塞がってないので、極力ゆっくり歩く、階段は使えない、重いものは持てない、とかとかいろいろ気をつけることがあります。

個人的にはしばらくヒールも自粛してました。なんとなく。

 

検査日入れて3日間の入院でした。

エコーで腎臓の様子見ながら、出血量に問題なければこのぐらいの日数で帰れるみたい。

 

翌週には細胞を送った病理医からの結果が返ってくるので、父と結果を聞きに。

 

その時の検査結果があいにく手元にないので、正しい数値が確認できませんが、

事前に主治医I先生の話からは、正常な腎臓の細胞が7割を切っているときつい。

という話でした。

私の生き残ってる腎臓の細胞は7割でした。

(むしろ3割死んでるのかと愕然)

 

アウトかセーフか微妙なラインなまま、検査結果を持ってA病院に戻るので、T病院にかかるのはここで終了。

 

翌々週にA病院の予約を取り、両親と一緒に先生と話に。

 

 

腎生検の結果を出してやっと何の腎臓病なのか名前が付きます。

診断は「IgA腎症」でした。

 

腎臓には糸球体という尿を濾過する機能が備えついています。

糸球体にはたくさんの毛細血管と、その毛細血管を繋ぎ止めるメサンギウムという柱の役割のような細胞がある(らしい)。

この細胞にIgAがくっつくと、毛細血管が炎症を起こす。

これがIgA腎症、らしい。

 

生物の知識も医学の知識も、全くに近いほど無いので、もっと詳しく知りたい方はご自分で調べてください。

 

このIgA腎症は慢性腎炎の一種で、腎機能が少しずつ低下して、その後透析が必要になる病気らしい。

 

 

透析…またも聞くからに大変そうで痛そう…。

(そして調べるとやっぱり痛そう…)

 

ものすごくげんなりしながら、心のどこかで、やっと病名がついたとホッとした。

健康診断で引っかかった2014年3月から、病名が付いたのは2016年4月。

本格的な治療が始まるまでに、2年もかかりました。

 

ここで学んだのは、お医者さんが大丈夫と言うんだから大丈夫だろうと流さないこと、ちゃんと見てくれるお医者さんと出会うまで探すこと、まさか自分に限ってそんな病気なんて…とか思わないこと。

 

私は運良く、A病院にかかったまま(何故か)ちゃんと診断してくれる先生に出会えたので治療が始まったけれど、あのままだともっと進行してた方と思うとぞっとします。

 

それに、腎生検の結果を聞くまで、まさか自分がそんなに悪いわけないだろう、と意味のわからない高のかかり方をしていました。

健康診断時(21歳)から、IgA腎症と診断されて(23歳)(※どちらもその月時点)、まさか20代でそんな…とか楽観視がありました。

でも検査結果を見ると、そんなことも言ってられない数値にまで来ていて、なんで大丈夫だと思っていたんだろうと思います。

 

もっと早くIgA腎症だと分かっていたら、なんて事は思いませんが、それでもまだギリギリ間に合うかもしれないところで良かったとは思います。

若いから大丈夫なんてことはないです。

 

 

なんかどんどん長くなっていってる…。

もっとまとまれば良かった('◉⌓◉’)

 

 

次はIgA腎症の治療が始まります。

 

 

 

 

腎臓病を患う話②

 

急性腎盂腎炎と診断されて1週間弱の入院を経てから、A病院にお世話になる生活が始まる。

 

入院の時にも少しH先生と話したが、急性腎盂腎炎の原因は明確には分からなかった。

尿路感染で細菌が腎臓に飛んだのだろうとは言われたけど、膀胱炎ではなかったし、先生的には

「ストレスか、冬だから冷えかな。あと水分を取るのも大事だから」

と言われたけど、私は結構何か飲んでるのが好きなので、水にしろお茶にしろコーヒーにろ頻繁に何か飲むので、これ以上飲むの?という感じだった。

あとはストレスも会社辞めたばかりなのになぁとは思っていたけど、ストレスと言われると他に言い返すこともなくなるので、そうですか…気をつけます…(何をだ?)みたいな感じだった。

 

「慢性化すると大変だから、再発しないようにね。」

そう言われてから、たしかすぐ、再発した気がする。

した気がする、というのは、実はその時を境に私は冬に2〜3回ずつ急性腎盂腎炎による短期入院を繰り返す。月1ペースぐらいで。

なので、入院の領収書をカウントすれば正しい入院ペースとか回数とか分かるのだけど、またかよ…と思うぐらいには頻繁に入院してたので数えてません。ごめんなさい。

体調が悪くなる(微熱など)、あっこれダメなやつや!と思う頃には血尿が出て、あれよあれよと言う間に高熱が出て病院に駆け込み入院になる。

それでも確かな原因が分からないから予防しようがなかった。

ストレスと言われても、その頃はあまり長い定職につけずにいたので(精神的に参っていたので)、これがストレス!と言い切れるものがなく、水分は意識してとっていたし、体調が悪くなるのは急激にだったので、どうしたら良いか分からなかった。

 

それでも繰り返す急性腎盂腎炎に、さすがにこのまま毎年冬に何度も入院するのは困る…とセカンドオピニオンを始める。

S病院の〇〇先生が良いらしいと聞くと、わざわざその病院まで行ったりもした。

ここは田舎の悪いところだと思うんだけれど、世間がとても狭いのだ。

結局その良いと噂の先生に相談しても、

「え?A病院のH先生なら大学の先輩だよ!ちゃんとした先生だから、テキトーな診断する先生じゃないよ。そのままかかってた方がいいよ」

と、まともに診断もしてくれない。わざわざ採血や検尿したのに。

 

そんな感じでセカンドオピニオンにならないセカンドオピニオンをしつつ、急性腎盂腎炎になるとA病院に駆け込んだ。

 

この流れが変わるのが、2015年11月での入院。

いつものように(っていうと変だけど)、急性腎盂腎炎の症状が出てきて、高熱の中A病院に行くと、運ばれた病棟がいつもと違った。

A病院は大きな病院で、各入院フロアが二分されていて、東は〇〇科、西は△△科という分け方をされてるんだけど、ベットが用意されたのは泌尿科の階ですらなかった。

 

(患者が多くてベッドが足りないのかな?)

とか思いながら、なぜかベッドの名札の表記も今回は「腎臓内科」になっている。

首を傾げていると、翌日ベッドに腎臓内科のI先生が来た。

先に言ってしまうと、このI先生が私が患っているのはある腎臓病と特定して、治療を始めてくれた今の主治医です。

 

この時の入院の記憶って、

え?なんでいきなりなんの説明もなく主治医が変わるの?H先生は?

って疑問が大きく、何の話をしたかぶっちゃけ覚えていません。

 

ですがその主治医が変わった途端、I先生から腎臓病の疑いがあると告げられる。

詳しいことは検査をしないと断定できないけど、早くその検査をした方がいい。

とりあえず年明けまでは通院で尿検査、血液検査の値を見るけど、親御さんにも相談しておいて。

的な事を言われた、(はず)。

 

本当にここら辺の記憶は曖昧です。

それはここから始まる検査と治療がしんどかったのと、これ以前にH先生と行なっていた事言えば、

・月一の通院で、検査結果を見て特に問題ないねと言われる事

・冬になると月1で急性腎盂腎炎にかかったこと

ぐらいしかないので、特にこれすごく大変だった!みたいな事がなかったからかも。

 

そこから経過を見ていましたが、2016年2月。

やはり尿検査・血液検査結果が良くないと判断され、腎生検をすることに。

 

腎生検とは、背中側から鉛筆の芯ほどの針を刺し、腎臓の細胞を採取して腎臓病を特定したら腎臓の状態を調べる検査。

聞くからに痛そう。

 

A病院には腎生検を担当する医師が居なかったので、他の病院への検査入院になりました。

そこで提案されたのが3つ。

・I先生の知人が担当するT病院

・県立病院

医大

下2つは、今までの検査結果が使えない(A病院から提出しても決まり?としてそれぞれの病院の医師が検査し直して、腎生検が必要か再判断する)らしく、何だれめんどくさーーーー?!と思いながら、嫌なことは早く済まそう精神と、また数ヶ月かけて同じ検査繰り返すのか…という億劫さから、T病院での腎生検が決まります。

 

検査が決まった翌々週ぐらいに、I先生からの紹介状携えてさらに車で走った所にあるT病院へ。

検査入院のための検査(ややこしい)をして、担当してくれる先生から説明を受けた。

検査は血液検査が6本ぐらい、あとは心電図とか、尿検査とか、それこそ健康診断のようにいろんな場所を回りました。

珍しかったのは、耳に小さな針で傷を作って、何分で血が止まるか測る検査。静かな部屋で、ストップウォッチ持って耳観察されるのがすごくシュールだった。

止血剤の兼ね合いとかの検査だったかな。

 

担当してくれる先生は感じの良いハキハキした方で安心する。

今日の検査で腎生検を行なっても問題ない事、当日の手順や注意、その後の注意、また合併症の危険を聞かされ承諾書にサイン。

その時、説明として(少しだけど)可能性がある合併症についていろいろ聞かされ、ナーバスになったけど、この検査をしないと何も分からないので考えても無駄なことは考えず、5日後に検査することに。

 

 

長くなってきたので、次は腎生検から。

 

 

 

腎臓病を患う話①

昼間の日差しが随分と暖かくなってきて、春が近づいてきているのが肌に感じて分かるようになってきて嬉しい。

この時期に思い出す行事(というのか?)の一つに、健康診断があります。

社会人の方は会社に決められた検診センターとかに行くのではないかな?はたまたもう結果をもらってる人も居そう。

 

今日書きまとめたいのは、私の持病の話です。

ちょっとグロいかなぁ…?って場所もあるかもなので、苦手な方は読み飛ばしてください。

 

 

私が初めて会社勤めをした時、三月に会社から指定された地域成人病健康センターで健康診断を受けました。

(2014年3月)

健康診断を最後に受けたのは高校の時の学校で行われたものでしたが、そこから特に病院にもお世話になってなかったので、別に何もないだろうとは思いつつ義務感と午前中電話対応しなくてラッキーぐらいに思ってました。

なのでその健康診断の結果を、総務の課長から心配そうに見せられた時はすごくビックリしました。

 

引っかかっていたのは腎機能の欄。

1〜5段階の4(精密検査を受けてください)でした。

(※6表記は治療の継続)

詳しく見ると、尿蛋白が2+で、赤血球の数も範囲を超えていた。

 

沈黙の臓器と聞くと肝臓を思い浮かべる人が多いと思うけど、腎臓も不調に気付きにくい臓器で、私も体感的に痛いとか感じることは全然ありませんでした。

なので首を傾げながら、とりあえず近くの腎臓内科がある病院に健康診断結果を持ち込みました。

自分自身に自覚症状があるわけじゃないので、その時の先生との問診も釈然としないまま、とりあえず一通り検査し直して、って感じだった。

結局その病院でなにか病名がついたわけではなく、様子見になったのだけど(医師の反応も深刻そうではなかったので安心もあって)、すぐに治療が始まったりはしませんでした。

 

その後、その会社は健康診断から半年後ぐらいにストレスで退社したのだけど、腎臓の様子がおかしくなったのがその一ヶ月後ぐらい。

(2014年11月くらい)

外出先で具合が悪くなり、夕方には歩いていると吐き気プラス悪寒がして予定を切り上げて家に直帰。

そこから夜にかけて熱が上がってきたけど、風邪かなにかかな?と思っていたのと、病院は明日でいいかと考えたので風邪薬を服薬して寝ていました。

しかし夜中(記憶ではたしか3時過ぎぐらい)、もう寝ていられないぐらい苦しい。

高熱で頭は痛いし、体はだるいし、苦しくて目は覚めるしで、早く朝になってくれ!!そして病院よ開いてくれ!!!と呻きながら、ふらふらとトイレ。

便座から立ち上がって驚く。

便器の中が真っ赤。

あれ?なんか尿に血が混ざってる?なんか赤いな〜?

とか言えるレベルじゃない。

もう尿というよりこれ血がそのまま出てるんじゃね?え?生理きた?いやそんなことない。血尿ってこんなヤバい色になるの?え?死ぬ?

って感じにプチパニックになるぐらい真っ赤でした、トイレが。

 

ふらふらしながら寝室に戻り、同棲してた彼にトイレでの趣旨を伝えると、血尿のことと高熱のこと(この時点で40度超え)まだ病院が開く時間ではないことを考え、人生初救急車。

すぐ来てくれた救急車に、ふらふらしながら自力で乗り込み(意識あったし自分で歩けたから)、どこの病院に行こうかと何か電話してる救急者の人。

家から徒歩5分ぐらい隣に、大きな県立病院があるのだけど、

「県病は今呼吸停止してる急患が居るらしいんだけどどうする?」

…いやいや、呼吸停まってる一大事の人に比べたらこっちまだ意識あるしそんな空気読めんことできないだろ!!!!

ってことで少し離れた(車で10分かからないぐらい)救急病院へ。

 (仮にこれからお世話になる病院をA病院とします)

 

初めて係る病院の救急治療室みたいなとこに運び込まれる。

時期もと高熱のこともあって、インフルエンザの検査もするも陰性。

血尿の症状を伝えると尿道から管通されて採尿されて痛かったけどもうキツイし朦朧としてるのでどうにでもして感。

とりあえず点滴をしてもらい、検査結果が出るまで待機。

その時診てくれたのが泌尿器科のH先生。

診断名は「急性腎盂腎炎」でした。

 

「帰っても良いけど、悪化してまた病院に駆け込む事になるよ」

と言われ、それの何が帰って良いんだ…?と思いながら、渋々緊急入院。

 

子供の頃は小児肺炎で風邪をこじらせてちょくちょく入院してたのもあり、久しぶりだけど入院自体に不安はなかったので荷物を彼に頼み病室へ。

たしか解熱剤は投与されてたと思うけど、まだ40度を超えてたので、そもそも帰れなかったと思う。

 

その後、薬のおかげで2〜3日で熱は引き、血尿も収まって5〜6日後には退院になる。

(緊急病院なので結構病室の入れ替わりが激しい)

 

ここから先、腎臓病の治療が始まるのは2016年で1年以上開くんだけど、長くなって来たので分割しようかな。

 

 

一月のメモ

 

本当は本を一冊読むごとに、映画を一つ観るごとに、新しいCDを一枚聴くごとに、感想書けたら良いんだけど、なかなかそうもいかず。

それは、ゆっくり感想を綴る時間がないとか、感想自体がまだあやふやで言語化できないとか、または感想を書きたくない(書けない)とか、いろいろなんだけど。

 

でもとりあえず、観たもの聞いたもの読んだもの、とかを、走り書きしとこうかなという感じ。

忘れてる分あるかと思うから、思い出し次第追記予定。

 

 

以下、一月中のメモ。

 

[映画]

君の名は。(2回目)

この世界の片隅に

 

[展示]

◯オランダのモダン・デザイン

リートフェリト/ブルーナ/ADO  (OPAM)

 

[CD]

◯朝へ For morning (utaco)

◯OLIVE (SKY-HI)

 

[本]

手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)  (穂村弘)

 

[その他]

哲学カフェ第31回参加

(テーマ、自分らしさって何だろう。)

 

 

以下、貼れるもののリンク。

気になる方は是非に〜。

 

 

朝へ For morning

 

 

OLIVE(CD Only盤)

 

 

手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ) (小学館文庫)

 

 

 

(あれー、本もう少し読まなかったけ?感があるから、何か抜けてるかも。)

 

 

 

(感想) 朝へ For morning

 

彼女の歌を初めて聞いたのは、成人してたかな?してないかな?ぐらいの頃かな。
手元に届いたCDから聴こえた音楽の重さに、ズシンと来たのは今でも覚えてる。
その頃の私には音楽は、なんというか現実味の無い表現という感覚が強かった。(音楽表現者じゃないやつが何を言うって感じだけど!)
娯楽というか、楽しい音だった。
でも彼女の音楽は、音というより声だった。
それぐらい生々しくて、惹きつけられるパワーがあった。
彼女、utacoちゃんのイメージは不思議なパワーを孕む歌を唄う人になって、それは今も変わらないです。

 

去年の11月にutacoちゃん主催のイベントが東京でありました。

3回目だったutacoちゃんのバースディイベント、私は現地には行けませんでしたが、lamppnytとして少しイベントに参加させてもらいました。

(ここで様子が見れます。素敵なので是非!)

うたのこどもが生まれた日vol3

 

このイベントでutacoちゃんの新しいCD「朝へ For morning」が販売されたので、1ファンとしては買わずにはいられず!

早く聴きたかったんだけど、ちょうどイベント後から年明けまでなんやかんやあって、やっと最近ゆっくり聴けたので感想でも、と久しぶりにブログの更新。
(長すぎる前置き)

 

上記に書いた通り、私のイメージはめちゃくちゃパワーのある歌なので、1度目はちゃんと落ち着けるとこで聴きたい!と思ってなかなか再生できなかったCD。
でも再生して1番驚いたのは、すごく印象が変わってたこと!
これは前のCD「10Hz」との比較なので、ピンとくるかは人それぞれだろうけど、「朝へ」の伸びやかさにとても驚いた。
パワーが無くなったわけではなく、昇華したイメージ。
持て余してた強すぎる感情やら生命力とかの使い方、持って行き場所が分かったから、もう大丈夫。そんなイメージ。


「10Hz」は原色だった。激しく動く感情も、静かで丸まってる感情も、痛いけど愛しい。
「朝へ」は原色に比べて、随分淡くなったと思う。霞みがかった色。それでいて新鮮で透明感の高い。確かに痛くて辛かったけど、それは悪いことじゃなかった。
水を加える前のどっしりとした発色の絵の具の色と、水を加えて色を作って白い紙にすうっとひいた色、そんな違い。


このCDを聴いた時、彼女はこの数年間でいろんなことを経て、そして乗り越えてたんだなと感じた。
そして彼女は今幸せなんだな、とも感じた。
(物理的な距離もあるし何が起こったのか全ては知り得ないので、全然予想なのだけど)
彼女の友人として、彼女の歌が幸せそうな事がとても嬉しかったです。
他人の不幸が売り物になってしまう時代で、幸せになると魅力がなくなったなんて言われてしまったりもするけれど、私は決してそうではないと思います。
「10Hz」には「10Hz」の良さがあって、「朝へ」には「朝へ」の良さがはっきりあって。
受け取る人に響く、響かないはもちろんあるけれど、でも確実に魅力は増したと感じました。


このCDの、どこまでも行けるような伸びやかさが好き。風に舞って優雅に表情を変える絹のような曲。
夜を越えて朝に向かうための曲。タイトルの「朝へ For morning」はぴったりだなと思いました。

 

4曲収録で、どれも個人的には甲乙つけがたく大好き。

 

CDタイトルと同じ「朝へ For morning」は、本当にタイトルを表すようなメロディーと歌詞で。
言葉の1つ1つに惚れ惚れしちゃうほど、綺麗な、でも儚さだけじゃない曲です。

 

「さ・よ・な・ら の ワルツ God is laughing」は、強いて、本当にどうしても1番を決めるなら、この曲が1番好き。
こんな歌い方も出来る人だったの、と思ったけれど、世界観はやっぱり彼女の世界で。
スカートをなびかせながら、時にはそのスカートを拳でぎゅっと握りながら、それでもその子の目にはいつだって愛がある、そんなイメージが浮かぶ曲。
utacoちゃんの話をしたいので、別の人の名前は出さないけれど、最近「別れを愛すること」について聞く事があって。ちょうど自分自身そんな事について考えてたので、時期も合ったのかも。

 

「アンタレス Cor-scorpii」この曲は、CDの中で1番utacoちゃんらしいって勝手に思ったり。
utacoちゃんのことを思う時、私はよく星を思い浮かべます。
小さいけれどとても明るく、自身で光を放ち続けて。生と死が少し痛いぐらい一緒にあって、太陽や月ほど強くはないけど、見つけるとほっとする、繋いでいくつもの星座の物語が広がる、あまり天体に詳しいわけではないけど、そんなイメージはどこか彼女に重なります。

 

最後に収録されている「舟 a boat」、この曲は実はこのCDを聴く前から知っていました。確かツイキャスとかで聴いた気が。
この曲もすごく惹きつけてくれる曲で。また、流れの最後だからすごく魅力が発揮されてて。
この曲を聴くと、早朝、まだ朝霧が立ち込める中、ゆっくり乗り込んだ舟を、そっと岸から押し出してもらえてるようなイメージが湧きます。
自分の夜明けに向かうために、舟を漕ぐ、その最初の初動の力を分けてもらえるような気になります。

 

また前のCDよりもクオリティもすごく上がっていて、それはutacoちゃん自身の成長ももちろんあるのだけど、「朝へ」を作っている全ての人のおかげでもあるんだろうなって思って。
CDジャケット、歌詞カードのデザインも歌の魅力を増幅させてるし、ピアノの音が入っているのも素敵で、音もすごく澄んでいて。そんなCDに関わっている人達の愛も、このCDができるまでにutacoちゃん自身に関わっていた人達のutacoちゃんに対する愛も、utacoちゃん自身の愛も、全部で出来た素敵なCD。

 

utacoちゃんのライブに、生歌を聴きに行きたくなるCDです。
(ファンとか言っときながら、実は距離的な問題で彼女のライブに行く夢はまだ叶ってないので、本当に機会を作らねば!)


amazonでお取り扱いを始めたみたいなので、是非聴いてみてほしい1枚です。

 

朝へ For morning

朝へ For morning

 

 

なんだかとてつもなく長く書いてしまった気がするけど笑、それぐらい好みの1枚でした。

 

何度越えても夜みたいな真っ暗な不安の中にいるときは、もう朝なんて来ない気がする。
時には朝が来る事が絶望だと感じる夜がある。
だけど、どんなに暗い夜が来ても朝が来るから私は大丈夫。

 

私が感想を書きながら、1番残ったイメージはこれでした。
気になった方は是非。

 

 

twitterで出会ってからもう5年近く経とうとしてる友人ですが、愛が深くて可愛らしい人。

最初のCDからの変化に驚かされたけど、彼女はこれからももっと変わっていくんだと思います。

自分に対しても他人に対しても、変化に対応するのがあまり得意ではないですが、変わることは悪いことではない、流れ続けたいと思い始めたのはごく最近です。

彼女がこれからどこに向かって、どんな表現を見せてくれるのか、友人としてファンとして、とても楽しみです。

 

 


((( 感想とは関係なさげなひとりごと )))

 

 

 

どうすれば自分の言葉を濾過できるんだろうと思う事がよくあります。
感想を書く時によく思う事、確かにその作品から何か受け取った感覚はあるのに、上手く言葉にできない。表現が稚拙で、語彙力が足りないと思う。その前に、感じた何かを自分で再認識して言葉に起こすこと、それが難しかったりする。誰かの言葉ではなく自分の声で。
読書感想文の書き方がわからず作中から引用しまくってた夏休みが思い出されます(うぅっ、、、)

楽曲でも本でも、新しいものを開こうとすると、私自身にすごくパワーがいります。身構えてしまうのかも。
でもだからこそ、受け取る準備ができた状態で作品を開くので、受け取ったものは少しでも消えないうちに残したいと思います。
今年もいくつ感想が書けるか分からないけど、できる限り書きたい。

苦手を少し克服した小言

 

美術館が、実は前は少し苦手だった。

 

今日、妹の課題の付き添いで近所の小さい美術館に行った。

初めて行く美術館で、こじんまりとしていて、展示スペースもあまり広くない二部屋しかなくて、来館者も少なくて、外観は素敵なのに、ひっそりとゆったりとした美術館だった。

妹の課題と言っても、妹は私よりも随分美術館に縁遠い子だと思う。

楽そうなので取った授業で、美術館についてあれこれ書いて提出しなきゃいけないというから、付き添ってその日やっていた美人画展を見た。

めんどくさいやら、よく分かんないやらいう妹の横で、解説を斜め読みして、さらにそれを噛み砕いてこんなことを表現した絵なのだと説明しながら周った。人がほぼ居なかったから、小声でしゃべっていたけど咎める人は居なかった。

 

私が美術館が苦手な理由が、よく分からないと言えないからだ。

同じ理由で、子供の頃の夏休みの定番、読書感想文も苦手だった。本はその頃からたくさん読んでたのに。

美術館やら、授業としての読書やら、そういう何かを感じとらねばならない、というものに弱い。何かを感じ取って、感想を述べなければならない。そこで、よく分かりませんでしたとは言いづらい。言えない。

 

知らないものを見るのは好き。知らない土地に行くのも、普段知り得ないものが知れるからいろんな土地に行きたい。読んだことないジャンルの本を、図書館でふらっと手に取るのもワクワクする。

だけど、それについての感想を求められた途端、息苦しくなる。

もちろん、何も感じてないわけじゃない。見て思ったこと、読んで感じたこと、聴いて浮かんだこと、いろいろある。あるはずなのに、口が、頭が重くなる。

そういうのも、人の求める応えを探す癖があるからだろう。長女気質なんだろうか、子供の頃から、親が先生が何を考えて何を求めてきているのか、どう答えれば満足されるのか、考えてた気がする。

だから、社会科見学で美術館に行っても、読書感想文で課題図書を読んでも、まずは、これを見て読んでどう感じて欲しいんだろう、となる。私が書いていて、私の感想ではないようなものが出来上がる。そしてそれが合ってるか分からないから、そもそも感想なんて言いたくなくなる。感想に正解なんてないんだけど。

それに、薄っぺらい感想しか出てこないと、まるで自分が薄っぺらい人間な気がしてくる。こんなに素晴らしい(であろう)作品を見てるのに、何も感じないなんて、感性が乏しいじゃない?みたいな。

そんなことはないと冷静には思う。

作品にも作者にも、相性はあるだろうし、誰かにとっての最高傑作が誰かにとっての落書きにしかならないこともある。要は価値観とどれだけ相性が良いかなんじゃないかと思う。

だけど、感想を言わなきゃいけないとなると、価値観が合わなくて、私には良さが分かりませんでした、では丸はもらえない。

でもよく分からないものに対して、言えることなんて薄っぺらい言葉だから、肩身が狭くなる。

 

美術館に対して、その苦手意識が無くなったのは割と最近な気がする。

長々と感想が書けるのが一番良い、わけでは無いと体感して、許せたからじゃないかな。

言葉に出来なくても、感じたものはきっと私の中にあるし、それは日々のいろいろで忘れちゃったりもするかもしれないけど、でも残り続けてどこかで私を形作る感性になると思えたから。

言葉にできるなら、それはそれで記録として残しやすいけれど、だからと言って言葉に出来ないから何も受け取れてない、感じられてないわけではない。

 

11月には友人に誘われて、市立美術館にミュシャ展を見に行った。その時は、一つ一つじっと近くで見て、ほぅっと息をついて、三歩下がって全体を見て、また近づいて、すごく魅せられた。展示数が多くて、最後は受け取りすぎて頭と心が飽和気味だった。

その時は、やっぱり言葉にはうまく出来なかったけど、すごくドキドキした。

そして早く帰って、何か作りたいと思った。

 

その感覚って大事だと思う。

なにも感想なんて、感想文だけじゃない。

受け取ったものを、言葉で綴る人でも、それは感想文だったり日記のようだったり、インスピレーションを受けて散文や詩、短歌なんて書いたりもするだろうし、音楽に長けた人なら音を作るのかもしれないし、私は刺繍をしたり、その為にラフとして絵を描いたりするから、とにかく手を動かしたかった。

 

美人画を見ながら、よく分からんと言いつつ中には「あっ、でもこれかわいい」なんて万能な言葉1つでサラサラと作品を通り過ぎてく妹を見て、別にそれだって良いんだと思った。

好きに楽しめればそれが一番。

 

美術館って結構企画展示の情報が入って来づらかったりするけど、興味をそそられるものは積極的に見に行きたい。

好きなもの作れるように、心を揺するものに触れることはとても大切。

インプットがないとアウトプットの質が下がるだろうし。

いろんなものに触れて、感想があるものはしっかりと感想を残したい。