ゆるぐた記録日記

読んだ本、思った事、取り留めもなく書き綴るつもり。

呪いをかけるのをやめられない

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読んでいた本を閉じ、照明を落とす。

 

布団に潜り込み目を閉じると、時計の秒針の音だけが部屋に満ちた。

スマフォに伸びそうになる手をぐっと堪えて、眠りに落ちる努力をするが、その甲斐もなく目は段々と暗闇に慣れ始めて、思考はお喋りになる。

 

明日のことを考えるのが嫌いだ。

明日が来なければ眠りに落ちるのだってもっと上手く出来ると思う。

けれど思考は無闇矢鱈にマイナス思考の展開し続けるので、代わりに眠りに落ちるまでずっと頭の中で繰り返す。

 

 

明日が来ませんように。

明日こそ目が覚めませんように。

早く死ねますやうに。

早く呼吸が止まりますように。

このまま寝てしまったら死んでいますように。

目が覚めませんように。

死ねますように。

起きませんように。

死にますように。

 

 

祈るように拳を胸の前で握りしめ、暗闇の中で呪いを繰り返しながら、ゆっくりとゆっくりと、睡魔が来るのを待ち、眠りに落ちる。

 

 

 

眠りにつくのが子供の頃から苦手だったと思う。

うっすらとまで落とされた照明に、聞こえてくる隣の寝息。定刻に起きなければいけないプレッシャーと明日への不安。布団はやたら重くて冷たい。寝返りを打っても打っても馴染まない枕。

眠るのが苦手ではなかった時は、仕事やらの繁忙期のためにくったくたになっていた時か、入院中に副作用で出た不眠を解消するために弱めの睡眠導入剤を服用していた間ぐらいな気がする。

 

寝よう寝ようとすればするほど、脳内の声は大きくなって、黙ろうとすればするほどネガティブな発言が多くなる。

考え疲れて眠ってしまった頃にはもう夜中で、翌朝重たい頭と体を布団から引き剥がす。その時間込みで睡眠をとる事が下手だし苦手だし嫌い。

 

 

体温が低いのも1つあるのかもしれない。

びっくりするほど低体温ではないが、体温が下がりやすいのか寒い部屋で寝ているとふらふらになるぐらい体温が下がってしまう。

冬場は自分の体温で布団が温まるまでがとても長い。

だから湯たんぽや体温の高い人とくっつくと、普段よりか寝付きがいい気がする。

足先からじんわりと体温が上がっていくのが分かると、何かがふっと軽くなる気がする。

体温が下がると眠くなるから、体温を一度上げてから眠りにつこうとするは理にかなっている。

 

思考の癖がつく前に辞めなければと思いつつ、呪いを唱え続けている間は思考が穏やかになるから辞められない。

 

そろそろ気温が少しずつ上がってきて、布団も少しずつ薄くなってくると足元を温めなくても良くなる。

そうなると本格的に呪いを唱え続けながら睡魔を待つしかなくなるのかもしれない。

( 感想 )手紙 / 東野圭吾

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1月だし、昔使っていた読書メーターを再開してみようと思いついた。

なぜ使わなくなってしまったのかは覚えてないけど、完璧主義な部分がある故に記録するものはきっちりしなければ気が済まないのに、それが段々煩わしくなる性格のせいだと思う。

久しぶりに使ってみて、感想の文字数制限の少なさにびっくりした。ほとんど何も言えない…!でも、管理できるのは便利なので今年は片手間でも使い続けられると良いなぁとぼんやり。

 

職場の忘年会で本の話になった。

仕事上あまり関わりはないが、読書家で知識量がすごい人だとは以前から知ったいた方と同じテーブルになったからだった。

その人曰く「自分の人生に影響を与えた数少ない本だから読んでほしい」とのことだった。

昨年はしばらく仕事が忙しくて、読書はおろか職場と自宅の往復以外で主だったことは特にできない日が続いていて、それにも嫌気がさしていたからリハビリにいいタイミングなのかもしれない、と翌日に買い求めた。

リハビリには、重たすぎる本だとは思ったけれど。でも結果的に一気に数日で読了できる期間に出会えて良かった。

 

( ネタバレ含む )

 

兄が犯罪を犯し刑務所に服役している間に、その弟を取り巻く環境を描いた小説。

展開は終始鬱々とした空気を拭い去れない。でも、それを「しょうがない」と思っている自分がずっとどこかにいる。主人公が幸せになろうとするたび、些細な兄の陰がちらついて失ってしまう。だけどその展開を安易に予測できてしまう。兄のことを知った周りの人たちが弟に救いの手を差し伸べるわけではなく、そっと気まずそうに距離を取り、去っていく。でもそれをおかしいと憤ることが私はできなかった。世間ってしょせんこんなものだよなとうっすら思ってしまった。

だけど、それは私はまだ差別していないと思いながら差別しているからだと思う。「差別はなくならない」は文中に出てくる印象的なワードだった。みんな自分を、自分の周りの人を守ろうと差別をする。そこに加害者意識はなく、防衛本能のみなのに、確実に相手を傷つけていく。差別で相手を貶すことは道徳的にいけないことだからと大半の人は過剰に気を遣い、壁を作り上げていく。主人公が悪いわけではないことは誰もが分かっている、なのに壁を作り上げていく人は多い。リスクを減らすために。

 

暗い展開を環境を変え、テーマを変え、繰り返していくうちに主人公の考えや立ち回りも変わり、途中で兄との絶縁を決める。その行動が正しいのか正しくないのかは分からないが、その行動によって、受刑者の更生とはなんなんだろうと疑問が残った。「受刑者の家族が受けている差別の苦痛もひっくるめて、受刑者の犯した罪の刑なんだ」という内容の言葉が出てくる。受刑者の周りの人間は更生させるための道具ではないが、確かに悔い改めるために必要なフォーカスなのかもしれない。作中でも弟が差別されていると知った兄は、落胆しながら自分はまだ更生できていなかったと語るシーンがあった。唯一の血縁者である弟に縁を切られた兄の更生とはなんだろうと思う。出所したところで、自分を待っている人間はいない。何のために更生するのだろう。自分自身の為というのは確かにあるだろうけど、更生する気持ちを奮い立たせるものはなんだろう。それを含めて刑だというには、兄の犯行動機を知っている一読者にするとどうしても、すんなり納得できない。

 

また、印象的な言葉で「身内の犯罪者のせいで差別されても、正々堂々としていれば差別されながらも道は拓けてくると考えているんだろうが、それは甘えだ。自分たちの全てをさらけだして、その上受け入れてもらおうと思っているわけだろう?仮にそれで無事に人と人の付き合いが生じたとしよう。心理的に負担が大きいのは自分たちと周りの人間どちらだ?」というのもあった。この視点は自分の中には無かった。兄が受刑者だと知って部署を異動させられるシーンでも、「君が悪いのではない。しかし君がいると周りが気を遣って仕事に支障が出るんだ」という言葉もあり、正しい事と生き抜くことは違うのだと思った。人間関係において、いくら正しくてもその場に流れる空気が苦しければ確かに続かない。

 

主人公が別の事件で被害者の家族という立場にもなるが、それを含めて、どこか他人事じゃないと感じた。

作中のように大事件になる可能性は低いかもしれない、けど、大なり小なり、加害者にも被害者にも、また加害者関係者にも被害者関係者にも、有無を言わさずなる時はなってしまうのは避けられようがない。

家族がそうなった時、親戚がそうなった時、恋人がそうなった時、友人がそうなった時、また知人がそうなった時、私はどう立ち回れるんだろうか。

自分が主人公と同じ立場になった時、また主人公と同じ立場に上記の誰かがなった時、私は何を考えてどこまで何ができるんだろうか。

 

「身内から犯罪者が出ても自分の生活には何も支障はないと思っていた。その考えが覆された」と本を勧めてくれた人は言った。

その人がそう言うのも、私が考え込んでしまうのも、きっと作中に出てくるどの登場人物の立場が自分と無関係だとは思えないからだ。

 

感動するわけではなく、教訓が得られるわけでもなかったけど、考えられされる良書だった。

 

身体の話

身体が邪魔だなぁと思うことが増えた。

だからといって精神体みたいなものになりたいかと言われたら、いや絶対なりたくないですと言う。

バランスが取れてないないとも思う。身体と精神のやりとりがうまくいっていない。そこで摩擦が起こるのは精神の方で、その矛先は身体に行きがち。

 

身体を思い通り動かすことなんてできる気がしない。難しすぎる。そもそも思い通りに動かせるようには出来てないのかもしれない。

勝手に入らなくていいところに力が入るし、やたら重いし、ケアしてもしても満たされないし、精神と足並み揃ってないと思ったら精神に引きずられて不調になったりするし。言い出すとキリない。

 

1番如実に私を表現しているところが身体な気がする。積み重ねたものが目に見えて分かってしまう。隠しようがない。

少し話がズレるけど、他人の容姿で重要視するのは写真のような静止画の時の格好良さ不細工さ可愛さではなく、表情の作り方だったりする。

笑い方とか、話す時の動作とか、その人が積み重ねてきたものや演じたものを見た時に嫌悪感を感じてしまうと、顔が整っている人でも無理だと思う。

それも一種コントロールできないものだ。まぁ容姿自体コントロールには限界があるけど。

 

多少なりとも多感すぎる部分があるんだと思う。それが合ってるかはともかく情報量が多すぎてキャパオーバーでダウンしやすい。

セーブができない。受け取らない方がいいと感じるとシャットダウンして閉じこもるしかできない。聞き流すとかも苦手かもしれない。馬鹿真面目か。

いろんな情報を感じ取るのが身体で、それをダイレクトに精神に届けてしまうから気疲れみたいな類の重さが取れない。

 

身体を使いこなすのが下手だと感じるのと同じくらい、人と過ごすのも下手だな感じる。

と書いて、語弊があるなと思った。

人と過ごした後に自分に戻るのが下手、要は八方美人なんだ。コミュニケーションは他人に委ねがちだし、その反動が一人の時に来る。反動…かな。委ねるところがないからかもしれない。まだ消化不良だなこれ。

 

身体が邪魔だと言ってたってしょうがないのだろうとは思う。

身体を手放すというのは自殺とかその辺だろうから、どうにかもう少し身体を使いこなせないか試行錯誤してみる。

服薬だったり食事だったり発声を変えるだとか筋肉量を増やそうとしてみたりだとか体重を減らしてみようとしたりとか。どうにかしてもう少し許せる身体にならないか。

 

寝る瞬間も苦手だけど、目が覚めた瞬間もとても苦手。

無意識と意識の狭間、意識を手放す時と意識を取り戻す時、その切り替えが下手な気がする。

起きた時、仕事だったり約束だったりがあると比較的身体が動きやすいのに、何もないと重くて重くて、おそらく体温も少し低いことが多くて動けるまでにしばらく天井やらカーテンから伸びる光を見てたりする。

そのまま寝てればよかったのにとか思ったり。寝れるならすることのない時は電源落とすようにひたすら寝てたい。

だとすると大半が仕事と睡眠のローテーションになりそうなのでやっぱり起きて何かしなきゃいけない。

 

起きたんだから、やることの一つぐらい、行くところの一つぐらい、何かしなければ。

移動時間の話

一つ千円ぐらいのしらす丼を、わざわざ隣県から数時間かけて食べに来た客がいたと、いつもの愚痴を母から聞いた。

年齢のあまり高くない夫婦らしき二人組で、GW最終日に車を使って来店した客らしい。

聞くと、「しかも道を間違えて迷ってしまって余計時間がかかってしまった」と笑ったそう。

その話を私にしながら、母は何も理解できないという空気のままその話題の愚痴は終わった。

 

私はその夫婦、見てないないけれど良いなと思いながらその話を聞いていた。

 

確かに千円ぐらいの食事をとりに高速とガソリン代まで出すのは、勿体無いと言いたい母の気持ちも分からなくもない。

でもきっと目的はしらす丼じゃないんじゃないかと思う。

GW最終日、どこか二人で行きたいねという目的からの、どこかの情報誌に載ってたしらす丼だったのかもしれない。

要はなんだって良いんじゃないかと思う。

行ったことのない場所に二人で行くという目的が果たせれば。

 

道を間違えて到着が昼食時から下がってしまったのに、喧嘩してる風でもなく笑いながら迷ってしまったと店員に話せるのは、その道中が楽しかったからなのではと思う。

目標はあの店のしらす丼を食べる事だけど、目的は二人で楽しく休日を過ごす事だから、多少迷って遅くなっても大丈夫。

これは全て想像なので、当の本人たちがどう思ってるのかは知る由もないんだけど。

でもなんだか、ほんわかしてる空気が流れてそうな夫婦でいいなぁと思った。

 

私はよく一人で移動することが多いので、移動時間に重きをおくことはあまりないのだけど、移動時間に重きをおける関係性は良いなぁと単純に思った話。

立ち止まらないということ

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昨日今日と急に寒くなって、もう終わったと思った三寒四温にボディーブローかまされたイメージ。

気温差は本当に読めない上に対処しづらくて、その上ダイレクトにダメージを受けてしまいやすいので、予報とかで急激に寒さが戻ってくるとか知るとビクビクしてしまう。

 

新年度の空気感にまだ慣れないまま、なんとか今年も2回桜を撮りに行けた。

上達は…してないなぁ、これ。とは思いつつ、毎年違う表情を撮ろうとしてみる。

 

 

年度末と新年度に加えて課内のごちゃごちゃにHPごりっごり削られながら、まぁなんとかまだ頑張ろうとは思えてる。

憂鬱ではないといえば嘘になるけど、やることがあるうちは何とかなると思っている。仕事に関しては。

割り切れるというか、切り捨てられるというか。

 

そんなこと言いながら、実は翌月はまるっとお休みフラグだったりする。いろんな事情で。

収入がまるっと一ヶ月止まるのは、まぁ精神的きついといえばきついけど、その分束縛も緩和されるから、その一ヶ月は動けるだけ動こうと、何しようかリストアップしてみたり。

 

新年度で新しい事業に異動になり、仕事外でも新しいことをやってみようという波がいくつかあり。

不安ありつつ、とりあえず行けるところまで行ってみるかと試行錯誤してるつもりなんだけど。

 

とりあえずは環境作りかなぁ、とか思っている。

 

限界が見えている気がする。

 

単なるフィーリングなので、本当はもっと耐えれるのかもしれないけど、感覚的には結構な綱渡りを続けている。

綱渡りを始めたのは自分なんだろうけど。

 

一つずつ一つずつ。

ずっと自分に言い聞かせている。

一つずつ積み重ねないと見えてこない。

このピースが次に繋がるかもしれない。

 

手探りがもう少し、あるいはもうしばらく、続いてしまうかもしれない。

オーバーヒートしてしまう前に、とりあえず環境と体力は作っておかなきゃとは思いつつ。

そこが一番難題なんだよなぁ。

 

できれば自己完結したい。

いろんなことに関して。

拡がりは見せないのかもしれないけど。

 

今年の夏は例年以上に荒れそうだな、とか梅雨も来てないのに思ってしまう。

頑張るしかないので頑張るよ。

取り留めのない話

 

気付けば2月も終わりかけで、私は何してたんだろうなと思ったりする。仕事に追われてたんだけど。

 

 

自分のことが嫌いなのは自分に固執しているからだと見たのはどこでだっけ。

 自分に向けたベクトルを他人に向けるにはどうしたら良いんだろうか。

そしてベクトルを向けると依存とはどう違うんだろうか。

他人を通しても自分にしかベクトルを向けれてないのだとしたら、それはもう自己完結で滑稽だなぁと思ったり。

 

 

思考がうるさい時はひたすら寝倒してしまう。

嵐が過ぎるのを待つように。

今日は事あるごとに寝すぎて体が重い。

夜中何時に寝付けるだろう。明け方まで起きてると簡単に生活バランス崩せて駄目だな。

寝倒してしまうくせに、眠りに落ちる瞬間が苦手で。疲れてる時ほど夜更かしをしてしまう。

寝付けない時は海の底に体が沈んでいくのをイメージして、体から力を抜くようにしてる。この癖がついたのは6年前ぐらいで、眠れない時は水に浮かぶ想像をしてると良いよ、と言ってくれた友達から。

プールの授業でも水に浮かぶのが苦手な私は海に沈む想像しかできないけど。

というか、沈むなら体に力入っとるやん。今更。

 

自分を傷つけるハードルが年々低くなって、そのうち本当に踏み外しちゃうんだろうなぁと思いながら、生真面目だから変に苦しくなりながらしばらく生き延びそうだなぁとかどっちつかずなことを思ってる。

抵抗がなくなったことをするのは興味がない。リストカットもODも後悔はするけどなんの意味も持たない。

そうやって自傷の種類を変化させるたび、わからなくなって手当てしにくくなる。

なんの話に飛び火したんだろう、これ?

 

今日は天気が良くて、暖房入れてない廊下ですら寒くなった。

春が近いのかもしれない。

昔は冬が一番好きだったけど、最近は春の方が好きかもしれない。

春の寂しさが一番優しい。

 

思ってることをただ湯船に浸かりながら書き出して見たけど、最近本当に独り言がやばいぐらい酷くてですね。思考の垂れ流し。

最初は声を発する練習してたら吃音緩和しないかなとか思ってついた独り言の癖が、道で独り言いう危ない人にまで近付いてるから良い加減どうにかしないと。

頭が働いてない時ほどよくどうでもいい1人脳内会議を口から垂れ流しにしてしまう。

この癖の矯正、目下もの目標かもね。

 

 

 

 

年末年始にあったこと。

緩く死にたい日が続いている。

年末年始は実家に帰省しなければいけなかったので、精神的に疲労するとは分かっていたのに、精神を武装しきれなかった。

結果的に思ったより精神的に食らってしまった。

親戚が三、四時間くらい騒いで帰って行ってから、どうしようもなくなって家を飛び出してしまった。

浮き足立った人の多いスーパーで鎮痛剤一箱と水とカッターを買って、川辺の階段に座って一箱飲みきった。

市販の鎮痛剤を安定剤のように飲むのは高校の時の悪習が抜けきれてないからかもしれない。

流石に外では自傷なんて出来ないので、ぼーっと川を見ていた。

浅くて入る気にもならなかったけど、もっと深ければ、もっと橋が高ければ、何かアクションしていたんだろうか、となんとなく疑問に思った。

寒さで体温が下がったせいか一箱薬を飲みきってしまったせいか、一時間後にはフラフラきてたけど帰りたくなくて本屋とかお土産屋とかコンビニをふらふらして、コンビニでとりあえずおにぎりをなんとなく買って食べて、そう言えば周りの空気ばかり伺って殆ど何も食べなかったんだな、と気づいた。

そのあと何事も無かったかのように帰って、少し不安げにこちらを探る父をあしらって、翌日もなんとなく凹みながら親戚と食事をとり三が日が終わった。

帰省が終わった翌日から仕事で、珍しく一日中頭が痛かった。

鎮痛剤を飲むが効かなくて、結局二日間ぐらい痛かった。

インフルエンザだったらどうしようかと思ったけど、熱はなかった。

土曜日に体が痛くなるほど寝た。

ストレスが限界を超えるとたまに熱を出していたけど、今年は仕事を休まないと気が張っていたせいか頭痛だったのか、と確証はないけど思った。

溜まった洗濯物や荷ほどきをしながら、今年はお盆と年末年始に実家に帰りたくないな、と思った。

父と折り合いが悪いのだと、だけれど向こうはきっと折り合いが悪いと思っていないし、私も折り合いが悪いのを隠しているとカウンセリングの先生に話したら、よく分からないという反応を返されたのを日常でたまに思い返す。

父親のことが嫌いなのだとしたら、なぜそんな律儀に実家に帰るのだ?と。

たしかに言う通りなのかもしれない。

ストレスになると分かりきっているなら、極力避ければ良い。

だけどそれが出来ない。

親族の関わる行事に参加せずにその後罪悪感や小言に苛まれるのと、少しの間親族の関わる行事にニコニコしながら参加して帰ってストレスで不調になるのでは、後者の方が楽だと思ってしまうのだ。

切り離すことが出来ない。

こう言うと私も依存しているのかもしれない。

自分を守るより自分を犠牲にする方がはるかに楽で見てくれも良かったりする。

年末年始は実家に帰っていたというと、ゆっくり出来て良かったじゃないかと言われる。

なんとなく微笑んで返す。

ストレスというとまず仕事が辛いのか聞かれる。

どうしても他人の実家には暖かいイメージしか持てないのかもしれない。

捨てたいわけではなくて、捨てれないわけでとなくて、でもこのまま持っているのはどうしようもなくしんどい。

そして捨てるビジョンも持ち続けるビジョンも見えてこない。

三連休で一日寝倒して、一日人と外出して、一日家で掃除などをして、なんとか一週間仕事を頑張ろうという気になった。

でもずっと目の前が灰色で。

思えばまだ今年の抱負も決めていないと思い出す。

頭がうまく回らない。

目の前のことしか出来ず、先のことに手を伸ばすのにとても労力がいる。

楽しいはずなのに、どこか景色が色褪せている。

これじゃダメだと色鮮やかな物に手を伸ばすけど、それすら煩わしく思える。

だけど、色鮮やかだと思えるものを捨ててしまったら自分は本当に死んでしまう気がする。

どんなに無駄そうに思えても、それがないときっと生きていけない。

たまに捨ててしまえば楽になれるのにと思うけど、その楽になれるは、楽に生きれるではなく、繋ぎ止める事がなくなったせいで楽に死を思えるの方の、楽になれるだと思っている。

心が踊らない。

心が踊ることに出会っても、持続させる事が難しい。

生命力が弱い気がする。

別にもうどうだって良いと思う。

積極的に死のうとは思ってない。

そこから生まれるのは、面倒なあれこれとか、元気なふりをしてたツケが周りの人たちに後味が悪い形で回してしまうとか、そんな感じだと分かるから。

だけど別に明日車が突っ込んできて、何かそんな唐突な事故に巻き込まれて、死んでしまっても別に後悔はない。

もう十分だと思う。

きっともう持ちきれない。

物の断捨離が苦手で、思い切って捨てようとならないと捨てれないけれど、きっと過去の断捨離も苦手だ。

記憶が増えれば増えるほど、生きづらくなっていく気がする。

当たり前に描けるような未来が、私には何もない。

緩い灰色の死にたさから目をそらしてくれる色鮮やかな何かに、今年は出会えるだろうか。